top of page
上州Projectは、たとえ重い障害があってもその人が望む生活を障害を持つ当事者がサポートしていく団体です。
失敗も含めてさまざまな経験を経てその人の生きていく力になる「エンパワメント」の考え方を重要視しています。
障害者だけが良ければいい...というのではなく、誰もが「生きてきてよかった」と思えるよう共生し、サポートしあえる仲間が存在している、そんな団体です。

上州Project概要

自立生活センター(Center for Independent Living略してCIL)とは

 自立生活センターは、重度の障害があっても地域で自立して生活することを可能にするための様々なサポートを行う団体です。障がい者が運営し、障害の種別に関係なく、サービスを提供しています。運営委員の過半数と事業実施責任者が、障がい者という利用者のニーズが運営の基本(障がい者主体)となっています。なぜなら、能率や効率を重視するこの社会の中でともすれば忘れられがちなハンディを持つ人たちの権利を、組織の利益よりも優先させる方法として最も優れているからなのです。
 重度の障碍者が暮らしやすい社会は、だれにとっても暮らしやすいわけで、その人たちが暮らすためには、よいサービスがその地域に存在している必要がありますが、黙っていたのではいいサービスはできません。その必要性がある人たちが行政に訴えていくことが重要なのです。つまり、自立生活センターは、自立生活の理念を実現させる最も有効な手段として、サービス事業体であると同時に運動体という形態をとっているのです。
 CILが提供しているサービスの四本柱は、「権利擁護」、「ピア・カウンセリング」、「自立生活プログラム」、利用会員の「介助派遣」です。

CILが作られるまでの歴史

​世界の自立生活センターの歴史

   1960年代、米国において黒人の公民権運動が激しく荒れた時代、障害者もマイノリティの一部として同じ公民権法の適用を望んでいた。米国の障害者運動は以降、公民権法の影響を強く受けることになる。
 1972年、カリフォルニア大学バークレー校を呼吸器付きの車椅子に乗ったポリオの障害者Ed Robertsが卒業しようとしていた。キャンパス内で得られた介助や住宅、車椅子修理、ピア・カウンセリングなどのサービスが使えなくなることから、同じ障害をもつ仲間と話し合い、家族や友人の協力も得て、地域の中に自立生活センター(以下、ILセンターと略す)をつくることになった。これが自立生活運動の創始である。米国以外では現実は理想とは逆の方向に進み、オランダでは障害者のコロニー政策がとられ大規模施設群ヘッドドルフが建設される。イギリスでは介助者付き集合住宅がつくられ障害者の集合住という方策が採られる。米国の自立生活運動とスウエーデンのフォーカスハウス(一般住宅への分散居住)を除いて世界はいまだに施設か集合住宅の域を出てはいなかった。
彼らが掲げた思想は、次の4つのものである。

(1)障害者は「施設収容」ではなく「地域」で生活すべきである。

(2)障害者は、治療を受けるべき患者でもないし、保護される子供でも、崇拝されるべき神でもない。

(3)障害者は援助を管理すべき立場にある。

(4)障害者は、「障害」そのものよりも社会の「偏見」の犠牲者になっている。

 これまで障害者はリハビリテーションという名の元に、健常者にできるだけ近づくことを一生の目的として科されてきた。例えば衣服の着脱に2時間かけても他人の手を借りずにすることがリハビリテーションでは評価されたが、自立生活の思想においては、介助を受けることは恥ずかしいことでも主体性を損なうものでもなく、自らの意志によって選択し、決定することが重要であることが高らかに宣言されている。リハビリテーションは期間を限った医療行為であり、障害者の生活を一生管理すべきものではない。

日本の当事者運動の歴史

自立生活運動の系譜を辿ると70年代の神奈川を中心とした青い芝の運動とほぼ同時期に始まる府中療育センター闘争にいたる。
 70年5月横浜で2才になる障害児を母親が殺害するという事件が起こった。事件後すぐ町内会、障害児父母の会によって減刑嘆願運動が起こる。青い芝神奈川支部はこれに反対する運動をおこした。
 70年11月東京都府中療育センターにおける劣悪な処遇に反対して在所生のハンストが始まる。72年9月から都庁前にテントを張っての座り込みが始まり以降2年間に渡る闘争に発展する。その結果東京都では、施設の個室化を政策に掲げ、またセンターから地域へ出て暮らし始めた人たちのためには「重度脳性マヒ者介護人派遣事業」が創設され74年から実施される。75年に厚生省でもこの動きを受けて、重度障害者の「生活保護他人介護加算の特別基準」への適応を始めた。
 これらの制度が出揃ったことで重度障害者が地域で暮らす条件は一部では徐々に整ってきたと言える。
 1976年東京都にケアつき住宅検討委員会が開設される。東京青い芝、頚損連絡会が提起した施設ではない地域での介助付きの居住の場を探る試みであった。モデルとしてはイギリスの介助者付き集合住宅が選ばれる。地域での普通の暮らし、つまり自宅に介助者が派遣されてくるシステムを提唱したものもいたが、結局20名の集合住宅が選ばれ、独立住宅と介助者派遣の自立生活を提唱したものは去っていった。翌77年この委員会はケア付き住宅建設協議会に改組され、79年に建物が完成し、80年にスタートした。この運営方針を巡って運動の場を主張する青い芝の会と生活の場を主張するその他の人たちとの意見の相違から、ケア付き住宅の地域との連携は閉ざされ、第1号ができただけで、第2号はついに作られることはなかった。
 72年に仙台市で第1回くるまいす市民全国集会が開催される。この集会をきっかけに仙台市では道路の段差にスロープがつけられた。この集会は以降隔年に開催され、京都、名古屋、東京へと引き継がれ現地の実行委員会が若手の障害者を糾合し草の根の障害者団体の育成に寄与するとともに街づくり運動の端緒ともなった。
 73年このような動きに呼応して東京都に街づくり協議会がつくられ障害者委員が参加した。この頃、北区桐ケ丘に都営の車椅子住宅の第1号が建設された。街に出ようという動きは移動手段の改善の動きにつながり、77年に朝日新聞東京厚生文化事業団が外国製の電動車椅子50台を障害者に寄贈し、それをきっかけにして東京都に電動車椅子検討委員会が開設された。 自立生活運動が一般に伝えられたのは、1981年の国際障害者年のEd Robertsの来日に始まる。その後Judy Heumannなど多数の自立生活運動家が、全国を講演して回った。自立生活の理念については、実に熱意の迸しる議論が行われ、感動を呼ぶものであった。しかし理念について語られはしたものの、ILセンターのサービスについては何ら伝えられないままで終わった。
 日本で初めてのILセンターは1986年6月の東京・八王子のヒューマンケア協会の発足を待たねばならなかった。それまでの障害者運動は行政の施策に対するプロテストや要求、活動、権利擁護活動が中心であり、当事者がサービスを提供するという視点が全くなかったか、無自覚であった。ヒューマンケア協会はその発足の当初から「これまで福祉サービスの受け手であった障害者が福祉サービスの担い手となる」と明確にサービスの担い手になることを自覚して、ILセンターの組織作りをしている。
 サービスの対象は老人を含むハンディキャップ者総べてであり、自立生活運動の枠を越え社会変革の核となることを目指している。これまでの障害者運動が障害種類別(脳性マヒや視覚など)であったり、地域グループや仲間内の集まりであったのに反して、ヒューマンケア協会は職種に最適な人材を障害種別や地域枠を越えて集めた機能集団として意図的に作られたことが、特筆に価する。これも障害者運動の歴史上になかったことである。
1989年より、ヒューマンケア協会という第1号の自立生活センターをモデルとして、またその事務所で働いたり、研修した人たちもその経験を生かして、徐々に全国にILセンターができて来た。町田ヒューマンネットワーク、ハンズ世田谷、CIL 立川などが純粋にILセンターを指向して生まれた。以前からあった札幌いちご会、その組織を発展、改変させたAJU 自立の家、静岡障害者自立生活センターなどの組織でも、自立生活プログラムや介助サービス、ピア・カウンセリングを開始し、戦列に加わってきた。
 そこで1990年暮、全国自立生活センター協議会(JIL、以下JILと略す)の結成準備会を新宿で開き、翌1991年11月22日の「全国自立生活問題研究集会」の開催日前日、その設立式を行った。
 JIL内には、5つの小委員会が設けられている。自立生活プログラム小委員会、ピア・カウンセリング小委員会、`I`Lセンターの運営とその他のサービス小委員会、介助サービス小委員会、権利擁護小委員会など各小委員会は2ヵ月に1回程度全国委員会を開き、各委員会別に新入会員団体向けのガイド・マニュアルを作成している。所長セミナーも毎年開催し、運営技能の向上を目指し、社会の付託に足るILセンターの育成に努めている。2000年10月現在、JILには全国のILセンター95ヵ所が所属し、そのうち東京には25ヵ所がある。毎年約10ヵ所が新設されている。


 

上州Project概要
CILとは
CILが作られるまでの歴史
bottom of page